生を享受した以上、どれほど避けても必ず死ぬ時がくるという事を知らない人はこの世に一人もいないでしょう。
しかし、死を知っていても、死がわかっている事にはなりません。
死が本当にわかったら、私達の毎日の日暮らしは、変わるはずです。
死を知っていても、他人事として知っているだけで自分のこととして受け止められない限り、死がわかっているとはいえません。身近な人の死に出会った時、人はいやでも自らの死に目を向けずにはおれません。
人間は最後に自らの死をもって、後に残るものに大切なことを教えて、この世を離れるのです。
死は必ずやってきます。その時になって慌てるのではなく、一日一日を大切に生きることが必要です。
それが先に逝くものが自らの死をかけて教えてくださった遺訓ではないでしょうか。
宗教は、人間のかかえている究極的な問題、すなわち、老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。釈尊が出家される機縁となったのも、その問題であり、老病死が迫っていることに気付く時、人間は、今ここに生きていることの意味を問われずにはおれません。この問題を解決しようとするところに、宗教の根本的な意義があります。
私たちは、つねに「今ここに生きていることの意味」を問い続けるべきであり、浄土真宗では、「今のこの私」こそが問題となるべきだと考えます。
しかし私たちは、ともすると目先の生活のあれこれに心を奪われて、この私の「究極的な課題」に取り組むことを忘れがちです。
そして、老いて自由が利かなくなり、病んで孤独の思いを抱き、死を見つめて自らの生命(いのち)の依りどころがはっきりしないと、迷信・俗信に救いを求めてしまいます。迷わないでください。今を見つめる事のできる場所こそが、お寺なのです。
生活の中で私達は1日に一度は「鏡」を見ます。では「鏡」を見る時はどんな時でしょうか。
鏡に写る自分自身の姿を確認し、正すところは無いかを確認する為に見るのではないでしょうか。
しかし、どんな素晴らしい「鏡」でも人間の心の中を映し出す事はできません。
では人はどうやって自らの心を確認するのでしょうか?
自らの為にわずか五分の時間を持つ事で自らの心が確認できます。
日々自らの為に立ち止まって、自分と対話してください。
お寺の阿弥陀様の前で心を落ち着ける事で本当の自分に出会う事ができます。